2012年2月の一覧表示

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馬見ヶ崎川

 マミガサキガワは、鈴川地方(鈴川・千歳・楯山)にとっても、また山形市にとっても歴史的にたいせつな川であります。

 今から三百七十年前、最上時代の山形城下絵図を見ると、この馬見ヶ崎川は、山形の城下町を東から西に真直ぐ流れています。そしてこの川の南に大きく山形城がえがかれております。それがお城や城下町を水難から救うためにこの川の流れの方向を変え、盃山のふもとを削って北の方に流したのは、最上氏の後に山形城主となった鳥居忠政というお殿様であるといわれています。

 大きなこの川を引受けた私達の祖先は実に広大な耕地を犠牲にしたと伝えられていますがその時、殿様は双月村には紙すき業、それから印役村や山家村には糀製造の特権と振興策を授けたことが伝えられております。

 もっとも馬見ヶ崎の支流があって、それが本流にされたものと私は考えていますが、それからの鈴川地方は終始洪水に見舞われるようになり、水難とたたかった祖先の歴史がたくさんのこっています。

 明治時代になると、この川にも馬見ヶ崎橋・二口橋・千歳橋等が架けられ道路も整備されてゆきました。また最近は治水工事もすすんで、馬見ヶ崎川は山形市の名勝といわれるほど美しくなりつつありますが、そのかげには鈴川地方の、それから山形市の大きな歴史がひめられておるわけです。



昭和52年9月2日発行
「ふるさと山形(1)鈴川のさと」
先代 武田好吉 著

更新日: 平成24年02月14日(火曜日)  編集者: 管理者

山家氏と館山

 昔から「山家の館山には山家河内守という殿様がおった」と語り伝えられてきました。

 しかし長い年月の波に洗われて其の証跡は何ものこっていません。

 ところが鉄砲町の光禅寺の開基、山形城主最上義光の墓前に、四人の殉死者の墓がたっていますが、その中の一基が山家河内守の墓であります。

 「即永了心居士」の戒名と「慶長十九年二月六日酉刻追腹」「源義光家臣、山家前河内守」と彫られています。

 即ち山家河内守は、山形城主最上義光(五十七万石)の家臣で、主人の義光が亡くなったとき殉死したことがわかります。それは桃山時代で慶長十九年(一六一四)二月六日、今から三百七十年も前のことであります。

 いろいろな書によると、山家城は山形城を守るいわゆる最上四十八楯の一で、その領知は三千石であったとも書かれています。

 しかし館山の山つづきの麓に金勝寺という有名な寺があり、そこに山形二代の城主斯波直家の墓がありますが、どうして山形城主がここに葬られたのか、其の辺の事情が不明です。そして主人義光に殉死までした山家氏の一族がどうして地元にのこらなかったのか、その歴史の謎を解こうと私たちはいま大いに努力しているところです。

 山家氏を名乗る人々は全国各地に居りますが、みんなヤンベと称しており、山家を名乗ることを誇りとし、みんな祖先の古里を慕っています。

 地元でも伝統を重んじ、山家町と山家本町をのこしたことは大変意義ふかいこどだと思います。



昭和52年9月2日発行
「ふるさと山形(1)鈴川のさと」
先代 武田好吉 著

更新日: 平成24年02月16日(木曜日)  編集者: 管理者

高原古墳

古墳を発見
 昭和二十四年一月二十四日、雪の少ない冬でありましたが、鈴川実業公民学校の女生徒に乞われて、古代の土器が散乱しているという高原の山麓を調査していて偶然に発見したのが此の高原古墳であります。

 それは高原と青野の境にあたる小山崎という処で、平らで大きな石につき当りそれを地元の青年団や友人達の手をかりて発掘し、はじてめ其処が古墳であり、その大石は石棺の蓋石の一枚であることが分ったのでした。

 長さ260cm・幅70cm・深さ50cmにおよぶ大きな石棺で、蓋石は六枚でありました。

 中から何か出ないかと、みんな注意して掘っていきましたが何もなく私はさびしさにおそわれ、
 遠き代 のかしこき人か 此の丘に
  葬むられしを しるしだになし
とうたって合掌いたしました。

 早速、県から川崎浩良、佐藤栄太の両先生が調査にきてくれ、更に五月十五日には文部省から枝官の斎藤忠先生が調査に来てくれ、貴重な遺跡として文部省の仮指定史跡になりました。

高原地方は古代人のメッカ
 その後、その東方からも三基の古墳(石棺)が発掘され、鉄簇や管玉なども出土しました。

 それから高原の上ノ原からも石棺が発掘されました。考えてみると高原地方には、もっと沢山の古墳が造営されたものと思われます。

 高原古墳と上ノ原古墳は、私たちが努力して柵をめぐらせて保存してありますが、その他のものは姿を失ってしまいました。

 この高原(昔は植野)の北隣の青野からも古墳が発掘され、さらに有名なお花山古墳群につづいていますが、この墳墓のつくられた七~八世紀(飛鳥・奈良)頃のわが郷土を考える大切な遺跡でありますが、もっと発見される可能性もあり、もっと時代をのぼることも考えられます。


昭和52年9月2日発行
「ふるさと山形(1)鈴川のさと」
先代 武田好吉 著

更新日: 平成24年02月18日(土曜日)  編集者: 管理者

印役の神明宮

 木立ちも古き神明宮
 鐘の音響く金勝寺
 ながき歴史を伝えたる
 この鈴川の里こそは
 わが学びやの在りどころ
 たのし楽しああたのし
  (前の鈴川小学校々歌)

 鈴川にきて森というと、まず印役の神明宮です。

 モリは杜とも書き、昔は社とも神社とも書いて、神聖なところ、神のおわすところ、という意味だそうであります。

 その神明宮の歴史は古く、しかも其の名を「いんやく」というのは昔、印(印章)と、鑰(かぎ)を御神体として祀った神社で、その神社の名がやがて村(町)の名にもなったと伝えられています。

 しかも調べてみると印鑰神社は一国一社の重要な神社で、その所在地がまた重要なのです。

 印役の神明宮は、遠く奈良時代に大野東人という将軍によって創建されたという由来をもっていますが、それを証するかのように、神社の周囲からは、その時代に使われた土師器や須恵器、それから刀なども出土しております。なかでも、ワラビ手の古刀は非常に貴重で、山形市の有形文化財に指定されております。

 印役の人々はこの神社を非常に大切にし、お祭りも盛大に行われております。

 この神社の正参道は、西南の県道(俗に山寺街道)から入りますが、そこには石鳥居や古い立派な青銅の燈籠が一対立っていて、いかにも古い神社という感じをいだきますが、南の方から入る、いわゆる南参道は、昭和十七年、鈴川村といったとき「みんなで参道を寄進しよう」といって、大宮村長さんを先頭に当時の鈴川村民が土地も労力も提供みんな協力して、おおよそ幅14m余、長さ300mという思いきった参道をつくって寄進したのでした。このことを忘れずに此の参道を大切にしなければならぬと思います。


昭和52年9月2日発行
「ふるさと山形(1)鈴川のさと」
先代 武田好吉 著

更新日: 平成24年02月20日(月曜日)  編集者: 管理者

最上駅のあった山形

 笹谷峠にトンネルが開通しました。それは山形、宮城、両県人の久しい間の待望でした。

 けわしい山道だけれど近いが故にそこを越え、とても難儀をして「うやむやのせき」などと嘆かれた古来の通路だったのです。

 でも平安時代の延長五年(927)に成った「延喜式」兵部省の諸国駅伝馬の項によると、峠の向うの街道には、柴田-小野-名取-玉前 などの駅(うまや)があり、峠のこちら側には、最上-村山-野後(のじり)-避翼(さばね)などの駅がありました。

 その小野駅は、今の宮城県柴田郡川崎町、それから最上駅は今の山形市にあたるものとされていますが、この両駅をつなぐ往来、すなわち天下の官道が笹谷峠であった訳であります。

 それは今年から数えて千余年も昔のことでありますが、小野駅には駅馬が十疋配されており、わが最上駅には駅馬が十五疋と伝馬が五疋(合計二十疋)配されたのを見ると大駅であったことがわかります。

 さて、その最上山形にお城が築かれたのは、それから余程あとで、南北朝時代の延文二年(1357)のことと伝えられております。

 築城の主は最上家の先祖となる斯波兼頼(しばかねより)とされておりますが、奥州大崎(宮城県加美郡中新田町)より赴任してこの地を領し、ここに築城したというのが定説になっております。


昭和61年8月10日発行
「ふるさと山形(2)城下町山形」
先代 武田好吉 著
(S56.9-S58.8 市報「広報やまがた」掲載)
更新日: 平成24年02月22日(水曜日)  編集者: 管理者

斯波から最上へ

栄枯盛衰

 最上山形に居を定めた斯波氏も初代、二代の苦労と努力が実を結んで、だんだん繁栄し、性(苗字)も最上山形の地名をとって最上氏を称するようになりました。それが更に三代、四代とつづくに従って村山平野の方々に館を築いてその子孫を配置しました。しかし「満つれば欠くる」とか「栄枯盛衰」という言葉があるように、伸びに伸びたその頃から最上家にも何か不穏の風が吹くようになりました。

 まず四代の満家が、多くの事情があって長瀞(東根市)に築いた城に入ったまま山形城には帰らず、とうとう長瀞城で生涯を閉じ同地の禅会寺に葬られました。その四代満家に代わって、山形城で政治をとっていたのが長男の式部大夫頼宗でした。

悲劇の人頼宗

 山形地方には山形城主頼宗公の建立と伝える寺もあり、山形城主最上頼宗公より云々と伝える寺や文書や伝承が沢山遺っています。

 しかし最上家の系図の中にはこの頼宗を家督とせず、弟とされる義春が五代を、その弟義秋が六代を継いだ事になっているのが多いのです(寛永諸家譜)。そこには何か訳があったことでしょうが、外部からの圧力干渉によるものと見られています。

 山形城を守り父に代って政治をとり、しかも長男である頼宗にたいするこの仕打ちは不穏な戦国時代の無惨さとも言えましょう。

 わが郷土の最上三十三観音の霊場をはじめて順礼されたのは、世をはかなんだ最上頼宗の一人娘ひかり姫と乳母の信夫であったという話も語られております。


昭和61年8月10日発行
「ふるさと山形(2)城下町山形」
先代 武田好吉 著
(S56.9-S58.8 市報「広報やまがた」掲載)
更新日: 平成24年02月24日(金曜日)  編集者: 管理者

山形の美女駒姫

中納言秀次の来形

 日本全土に渦巻いていた戦乱もようやく治まり、豊臣秀吉が天下を統一しましたが、そんなとき秀吉の養子である中納言秀次が徳川家康らとともに山形を訪れました。それは、陸奥の九戸地方の反乱をうち平らげての帰途でしたが、今を時めく実力者たちの訪問を山形城では大いに歓待いたしましたが、そのとき美しい駒姫の姿が中納言秀次の目にとまり、是非にと所望されました。

 駒姫は山形城主最上義光の二女で東国一の美女といわれておりましたが、まだ十一歳の少女、しかも相手はやがて関白にのぼる権力者。父の義光は迷い悩んだあげく「成人の暁にはご奉公に」と苦しい回答をしてその場を切り抜けました。

駒姫かも川に散る

 年月の流れは早く、文禄四年(1595)十五歳の春を迎えた駒姫に早くも上洛の催促がありました。すべては人の世の宿命と諦めて駒姫は都にのぼりましたが、その時は事情が一変しておりました。関白秀次は豊臣秀吉の怒りにふれ高野山に追いやられ、そこで命を断たれてしまった後でした。秀吉は後顧の憂いを断つため、秀次の子四人と、妻妾三十五人の首をはねる命令を出したのでした。その命令は京都のかも川三条大橋の下で行われましたが、山形を出立して着いたばかりの駒姫もその中に巻き込まれて首をはねられ、十五歳を一期に哀れにもはかない一生を終えました。

 その死を深く悲しんだ義光は山形に帰り、最上専称寺という寺をたてふかく駒姫の菩提を弔いました。


昭和61年8月10日発行
「ふるさと山形(2)城下町山形」
先代 武田好吉 著
(S56.9-S58.8 市報「広報やまがた」掲載)
更新日: 平成24年02月26日(日曜日)  編集者: 管理者

大きな城、大きな町

 山形城下絵図をみると、山形城の広大なことに、みんな驚ろかれたことと思います。本丸と二ノ丸(この中が今の霞城公園)の外に大きく三ノ丸があって、延々と土塁と濠をめぐらせています。

 城というと直ぐ建物を想像しますが、本来の意味は敵から身を守る構えの事で、辞書にも「敵ヲ防ガンガ為ニ、四方ヲ堅固ニ構ヘタル一区ノ地ノ称。外ニ、土石ノ郭、堀ナドアリ、内ニ家アリ兵ヲ屯シテ住ム。」
とありますが、山形城の三ノ丸にも家臣の屋敷がギッシリと書きこまれています。

 東の国に鮭延越前守、大山筑前守、西の方には上山兵部大夫、小栗頼母、北の方には小国日向守、本庄豊後守をはじめそれこそ多くの名前が書きこまれています。

 そしてその地は今の山形駅や、山形市民会館、NHK、電報電話局、教育会館、学校では一小、二小、四小、二中、三中、などみんなその中に含まれます。

 その三ノ丸の土塁と濠も次第に姿を消して、今遺っているのは十日町の歌懸稲荷神社の西だけになってしまいました。南北に長い土塁で幅は基底部で25m、高さ5.4m、外側の濠は幅15m、深さ2.7mの窪みとなって遺っていますが、いま山形県の史跡に指定されています。

 また三ノ丸の外、即ち城下にも多くの名前が書きこまれ、中には重臣達の下屋敷などもありますが、一般の町民の住んだ所も線をひいてたくさん書きこまれています。


昭和61年8月10日発行
「ふるさと山形(2)城下町山形」
先代 武田好吉 著
(S56.9-S58.8 市報「広報やまがた」掲載)
更新日: 平成24年02月28日(火曜日)  編集者: 管理者
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