山形の美女駒姫

中納言秀次の来形

 日本全土に渦巻いていた戦乱もようやく治まり、豊臣秀吉が天下を統一しましたが、そんなとき秀吉の養子である中納言秀次が徳川家康らとともに山形を訪れました。それは、陸奥の九戸地方の反乱をうち平らげての帰途でしたが、今を時めく実力者たちの訪問を山形城では大いに歓待いたしましたが、そのとき美しい駒姫の姿が中納言秀次の目にとまり、是非にと所望されました。

 駒姫は山形城主最上義光の二女で東国一の美女といわれておりましたが、まだ十一歳の少女、しかも相手はやがて関白にのぼる権力者。父の義光は迷い悩んだあげく「成人の暁にはご奉公に」と苦しい回答をしてその場を切り抜けました。

駒姫かも川に散る

 年月の流れは早く、文禄四年(1595)十五歳の春を迎えた駒姫に早くも上洛の催促がありました。すべては人の世の宿命と諦めて駒姫は都にのぼりましたが、その時は事情が一変しておりました。関白秀次は豊臣秀吉の怒りにふれ高野山に追いやられ、そこで命を断たれてしまった後でした。秀吉は後顧の憂いを断つため、秀次の子四人と、妻妾三十五人の首をはねる命令を出したのでした。その命令は京都のかも川三条大橋の下で行われましたが、山形を出立して着いたばかりの駒姫もその中に巻き込まれて首をはねられ、十五歳を一期に哀れにもはかない一生を終えました。

 その死を深く悲しんだ義光は山形に帰り、最上専称寺という寺をたてふかく駒姫の菩提を弔いました。


昭和61年8月10日発行
「ふるさと山形(2)城下町山形」
先代 武田好吉 著
(S56.9-S58.8 市報「広報やまがた」掲載)
 
:arwright: トップへ
:arwright: 会社案内 :arwright: 事業内容 :arwright: 企業沿革 :arwright: 設備
:arwright: サイトマップ :arwright: お問い合わせ
Total363467 Week013 Yesterday167 Today013 IP check in 30 min Since 2010-06-12