斯波から最上へ

栄枯盛衰

 最上山形に居を定めた斯波氏も初代、二代の苦労と努力が実を結んで、だんだん繁栄し、性(苗字)も最上山形の地名をとって最上氏を称するようになりました。それが更に三代、四代とつづくに従って村山平野の方々に館を築いてその子孫を配置しました。しかし「満つれば欠くる」とか「栄枯盛衰」という言葉があるように、伸びに伸びたその頃から最上家にも何か不穏の風が吹くようになりました。

 まず四代の満家が、多くの事情があって長瀞(東根市)に築いた城に入ったまま山形城には帰らず、とうとう長瀞城で生涯を閉じ同地の禅会寺に葬られました。その四代満家に代わって、山形城で政治をとっていたのが長男の式部大夫頼宗でした。

悲劇の人頼宗

 山形地方には山形城主頼宗公の建立と伝える寺もあり、山形城主最上頼宗公より云々と伝える寺や文書や伝承が沢山遺っています。

 しかし最上家の系図の中にはこの頼宗を家督とせず、弟とされる義春が五代を、その弟義秋が六代を継いだ事になっているのが多いのです(寛永諸家譜)。そこには何か訳があったことでしょうが、外部からの圧力干渉によるものと見られています。

 山形城を守り父に代って政治をとり、しかも長男である頼宗にたいするこの仕打ちは不穏な戦国時代の無惨さとも言えましょう。

 わが郷土の最上三十三観音の霊場をはじめて順礼されたのは、世をはかなんだ最上頼宗の一人娘ひかり姫と乳母の信夫であったという話も語られております。


昭和61年8月10日発行
「ふるさと山形(2)城下町山形」
先代 武田好吉 著
(S56.9-S58.8 市報「広報やまがた」掲載)
 
:arwright: トップへ
:arwright: 会社案内 :arwright: 事業内容 :arwright: 企業沿革 :arwright: 設備
:arwright: サイトマップ :arwright: お問い合わせ
Total344926 Week053 Yesterday049 Today004 IP check in 30 min Since 2010-06-12